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継承されるものが持つ力

オープンした時から地元国分寺ではかなり話題にはなっていて、
周りの友人達から「とても素敵だった」と評判も聞いていて、
ずっと行きたいと思っていながらなかなかその機会を得られなかったカフェおきもとさん。
先日、やっとやっとの初訪問が叶いました。

建築は1933年との事なので、すでに築92年。ほぼ当時のまま保存されているそうです。
譲り受けた久保さんという女性が、この建物を残し維持する手段としてカフェを始められたというストーリーはオープン当時から有名で、その幸せな建物を見てみたいと思っていたのですが、
実際に足を踏み入れると建物だけでなく、そのお庭も圧巻。
ケーキもコーヒーも本当においしくて、今回は頂かなかったけれど間違いなく食事もおいしいはず。
食器も素敵。

と、書いてしまえば数行でまとめてしまうけれど、約100年という時間の重みごと継承され、
妥協のない運営をされている事に畏敬の念を抱かずにはいられませんでした。
この姿勢が、また周りの人達に「一緒に守っていきたい」と思わせていくのだろうな。

はじめましてのお客様との顔合わせの場所に選んだのですが、大正解。
この空間の包容力を借りて、お互いがかしこまらずにいろんな話をしながら、
お互いの嗜好や価値観を共有する事ができました。ありがたい事です。

大切に守られるもの、残したいと思われるもの、そういう物や事が当たり前に創られていけば、
SDGsなんて大義名分は不要になるんだろうな。

しなやかさの土壌

そういえば、竹細工のワークショップに参加した時に先生が、
「肥沃な土地で育った竹より、痩せた土壌に生えてる竹の方がしなやかなんですよ」
というお話をされていて、ちょっと響いたんですよね。

シンプルに考えれば、栄養が足りないから強く育たないだけなのでしょうが、
しなやかに生きたいと思っている私としては、
なるほど、何かが少し足りていないくらいの環境で成長するのが良いのだな、と、
深いのか浅いのか分からない納得をしたのでした。笑

なんて、軽めに書いていますが、結構本気で生き方の本質を感じたのですよ。
最終的には、しなやかである事が絶対に強いと信じているので。
不足に咲く花でありたいと思っているので。

媒体の磁場

4月の後半、ちょっと息切れしておりました。笑

いろいろ書きたいこともあるし、撮りためた写真もお披露目したいものがたくさんあるのですが、
とりあえず4月の後半はなかったものとして、しれっと5月を始めることにします。

先程、およそ1年ぶりにWorks(インスタグラム)を投稿しました。
マンションのスケルトンリフォーム、Kk邸。
住まい手のKさんも工務店さんも、もちろん私も、大満足の出来栄えで無事にコンプリートです。
楽しかったなー。

本当はこちらで報告しようと思っていたのですが、Blogに書こうとすると、
テキストで伝えたいことが溢れてしまって、まとまらなくなっちゃって。
記事がtoo muchになってしまうので、とりあえず気軽なSNSに逃げました。笑

いや、Worksページとして作ったのだから正しい使い方ではあるのですが、なんでしょうね、
それぞれの媒体に磁場みたいなものがあって、同じ出来事を書こうとしても、
どこで発信するかで書く内容が変わってしまうのがとても不思議なんですよね。

乙武さんだったかな?全く同じ投稿をXとInstagramにポストしたのに、
フォロアーからのコメントの内容が全然違って驚いたと言っていたんですよね。
さもありなんなんだけど、リアルの世界だけでなくバーチャルの世界でも
TPOの使い分けみたいなものが必要になってしまったら疲れちゃいますよね。

少し前まで、『サードプレイス』という言葉が流行っていたけど、
3番目どころか、現代人は少し居場所が多すぎるのではなかろうか。

漂流しよう

ずいぶん前に読んだ重松清さんの『流星ワゴン』という小説の中に、
「人間は、たった30秒先の未来さえ予測できないんです」みたいなセリフがありました。
交通事故で即死してしまった幽霊が、その事故現場に向かって歩きながら、このカーブを曲がったところでトラックと正面衝突をしたのだと説明しているシーンだったと思います。
とても印象的な場面で、軽くショックを受けたセリフでした。
本当にそうなんですよね。

30秒先さえ予測できないんだから、1年後、10年後の自分がどうなってるなんて分かるはずがない。
しかし、具体的に予測をした訳でもないくせに、自分の今の現実に、
「こんなはずじゃなかったんだけどな」と首をかしげてしまうのはなぜなんでしょうね。笑
どんなはずだったんじゃい!と自分に突っ込みたくなることがよくあります。

今日で3月も終わります。
2月が終わる時点で0.1ミリも想像していなかった事が起こり、
全くもって、人生、何が起こるか分からないものだと実感した1か月でした。
こんな大きな刺激はそうしょっちゅうはいらないけれど 笑、
小さな奇跡や偶然を楽しみながら、4月も過ごしていきたいと思います。

目的地に向かって必死にオールを漕ぐよりも、筏に乗って大海を漂っている方が、
意外と、本当に行きたかった場所に早く辿り着けたりするし、なにより、愉しい。
4月の終わりに、私はどこに居るのやら。笑

理解の授受

沈丁花が香り出しました。
あたたかい一日でしたね。
週末からは一気に気温もあがるみたいで、いよいよ桜の開花かな。

昨日、私のこのブログをこんなに丁寧に読んでくれてる人がいるんだと知る出来事があり、
自分の存在をとても大切に扱ってもらえたような気がして、
なんだか、とても満たされた気持ちになりました。

受けとってもらえたとか、理解してもらえたとか、
そういう喜びや安心を交換し合える関係性を誰かと持っていたら、
人は大概の事は乗り越えられるんじゃないかな。
昨日のツキイチカフェの相談会に来てくれた人や、
夜、一緒に食事をした友達との会話を思い出しながら、
今日は一日、そんなことを考えていました。

おかしいってば。

自分がこんな事をblogに書く日が来るなんて思ってもいなかったけれど。

 

この国は本当にこのままで大丈夫なのか?と、さすがに少し憂います。

なんだろう…。
誤解を恐れずに書いてしまうと、
みんなそれぞれ、全然違う武器を振り回して、勝手に敵を作りながら、
あちらこちらでバラバラに戦争をしているみたいに見えてしまう。

子供たちの目に、今の大人はどんな風に映っているのかなと、それがいちばん心配。

政治と時事ネタは書かないと決めているので、こんなにぼんやりしたことしか書けないんだけど、
あまりにもひどいなぁ…と、嘆きたくもなる訳で。

武士道なのか?笑

つくづくめでたい性格だな…と思うけれど。

このHPのAboutのページに自分で書いた文章を久しぶりに読み返して、
ちょっと泣きそうになってしまった。笑
あっちを向いたりこっちを気にしたりしながら、
いつの間にか、どこを向いて仕事をしているのか分からなくなった時に、
ちゃんと自分がいるべき場所に立ち返らせてくれるのは、いつだって自分なのです。

 

住宅に限らず、建築に関わることはすべて個別解だと思っています。
同じ悩みでもその解決方法は人の数だけあり、理想やべき論で語れるものなんて何もない。
つくり手の経験値や哲学ももちろん大切だけど、
アドバイスとエゴの境界線の位置でさえ、対峙する相手によって変わるものです。
目の前の人が本当に求めているもの、必要としているものをしっかりと見極め、忠実に形にし、
そこに『デザイン』という素敵なリボンを添えて手渡すような仕事をしていきたいと考えます。

自分が一番呼吸しやすい暮らしの場をつくってください。

 

この思いをブレずに持ち続けて、
「こういう仕事をしていきたいんです」といつも胸を張っていたいし、
きちんと目の前のお客さんの希望に向き合って、
その『個別解』を導き出すことだけは、手を抜かずに、ごまかさずに、取り組んでいきたい…
そう思ったのです。よそ見してる場合じゃないぞ!と。
あらためて書くと大げさになっちゃうんだけど、自分に励まされるって悪くない。笑

先日、同業の友達と話をしていて、30年も設計の仕事を続けているのに、
どうして毎回毎回、初めて経験する課題が出てくるんだろうね…と苦笑いをしたのだけれど、
そして、今年の4月の法改正も近づいてきて、
さらに課題ばかりが増えていき、そりゃたまにはため息も出ちゃうけれど、
ひーひー言いながら、もう少し頑張ってみましょうか。

なぜか今、無性に『葉隠』を読みたい気分。笑

今年もお世話になりました。

ぬかるんだ道を歩き続けて、時々足を取られて立ち往生してしまい、
誰かに足を引っこ抜いてもらってまた歩き出す。
例えるならば、今年はそんな1年だった気がします。笑

何をしてきたのか思い出せないくらいあっという間だったけど、
丁寧に思い出してみれば本当にいろんな経験をさせてもらった1年だったな…。
気持ちの言語化は割と得意な方だと思っていたけど、今年はそれが全然できなくて、
気持ちと行動の辻褄が合わないまま突き進んでしまった1年だったな…と、
そんな今年の振り返りを年末に何人かの友達に話したら、
みんながものすごく共感してくれました。
多くの人にとってそういう年だったのかな、2024年は。

ネガティブな事は書かないようにと意識はしているけれど、
やっぱりどう考えても、最近世の中で起こってる事っておかしなことばかりで、
そんなニュースにもどこかで慣れてしまって感情が麻痺していそうな不安があります。

イヤなニュースに目を向けずに明るい方を見て生きようとしていても、
棘みたいに刺さってみんなの心を少し蝕んでいるような気がして。
せめて、なんだかおかしなニュースばかりだな…と感じる
その感情にだけは自覚的でいたいと思う年の瀬です。

13年前のあの震災以降、自分の暮らしには直接影響のないところで起きている出来事について、
自分の気持ちの置きどころを見つけるのがとても下手になったなーと、大晦日のたびに感じます。
今年の元旦の地震の記憶も新しいからか、新年を迎えるのにちょっと緊張があったりもします。
来年こそ、平和で穏やかな1年でありますように…と願う気持ちの純度の低さも感じます。

あはは。
今年最後の投稿なのに暗ーーい!笑

でもね、なんか、一旦こういう負の感情は吐き出しておいた方がいいんですよ。
1年に一回くらい。ちゃんと。
あと数時間もすればしれーっと新しい年になり、
しれーっと気持ちもポジティブに変わるのだから。笑
大丈夫。万事良好。
いろんなことがあったけれど、それでもやっぱり楽しいことがたくさんあって、
本当に充実した1年でした。
今年は、やってみたかった事や、行ってみたかった所にもずいぶんチャレンジできましたが、
これについては来年はもっともっと貪欲に行動していくつもりです
2024年の全てに感謝!
2025年の全てに期待!
今年も一年、お付き合いいただきありがとうございました。
来年も、たくさん感動しましょうね♡

灯台のような言葉 灯台のような人

先日お会いした、とっても素敵な人生の先輩に、
「これからも、いっぱい感動しなさいね」
という言葉をいただいた。

じわーっと、ずしんと、心に沁みてしまって、
この言葉を握りしめていれば、
人生で暗闇に紛れそうになっても、決して迷子にはならないだろうな、と思った。

でも、どんな素晴らしい言葉でも、
それを発する人によって伝わり方は違う訳で、
やはり大切なのは、何を言われたか以上に誰に言われたかなんだろうな。
彼女の人生がそのまま、その言葉に乗っていたのだろう。

言葉だけが独り歩きしがちな時代だからこそ、
言葉と肉体と精神が乖離していない人間になりたいなと思う。
ちゃんと重量のある言葉を発せられる人間になりたいなと思う。
その為に必要なのが『いっぱい感動すること』なのかもしれない。

さてと。

SNSからは約2か月、ブログ(1/365含め)からは約1か月離れていました。

何かをきっかけにそうしてみようと思い立ったわけでもなく、
特に充電期間だったわけでもなく、
今、また書き始めているのにも特にきっかけもなく…。笑

SNSから少し離れてみると、自分が今日何をしたとか、何を食べたとか、どこに行ったとか、
何を考えたとか、悲しかった腹が立った嬉しかったとか、
多くの人がそんなパーソナルなことをわざわざマスに向けて発信し、
会ったこともない人同士がコメントしあったりしているのがなんだか不思議で、
つくづく、おもしろい時代なぁ…と感じました。

と、同時に、
例えば「今日は気持ちのいい秋晴れですね」とか、
そんな一言を誰かに向けて話すだけで、その日の景色が少し変わるような、
言葉を発する事の大きな意味も感じていたりもしました。
相方さんがいなくなってひとり暮らしになり、仕事も一人でやっている私にとっては、
日常の何でもない会話を交わす、とても貴重な場所になっていたようです。
SNSの発信はこのままやめてしまうかもしれないけれど、やっぱりブログは書きたいな、と。

最後の日記が自民党の総裁選の日で、久しぶりに書いている今日が衆議院総選挙というのは、
それこそ全く意味はなく、たまたまなんだけど、
それでも、選挙戦を眺めていると、
自分の中のNGとか、人としてのあり方の理想みたいなものを再認識するきっかけになります。
信じられるものと信じられないものの違いが何なのか、そんな事にも少し気づけたりします。

この数か月、いろんな事があって、いろんな事を考えさせられたのだけれど、
ひとつだけ、はっきりと分かったことがあって、
『自分が自分についてきた小さな嘘が、いつか自分を苦しめるのだ』
という事。

書くと重いんですけどね。笑
そんな深刻な話ではないのだけど、嘘はつかない方がいいよね、と、本当にそう思うのです。
嘘をつくくらいなら、黙った方がいい。
人をだます事になるからではなく、自分に小さな棘が刺さるから。

でんぐり返し

パンダが延々とでんぐり返しを続けている動画が友達から送られてきた。
それを眺めていたら、なんだか無性にパンダが羨ましくなっちゃって、
生まれ変わったらパンダになって、ずっとでんぐり返しをしていたいなぁ…なんて気持ちになって、
そしたら急にでんぐり返しをしてみたくなっちゃって、
いったい何(十)年ぶりなんだろう… ベッドの上ででんぐり返しをしてみました。

してみました、と軽やかに書いたけど、実際は、怖くてなかなか回れなかったのです。
こんなに怖くて勇気のいることだったっけ?と驚いて、
回っているところに猫が滑り込んできて潰しちゃったらどうしようという不安も相まって、
しばらく両手をついたまま固まっていたのですが、
覚悟を決めて、エイヤ!と思い切って回ってみたら、これがとんでもなく快感!
その後、何度も繰り返して、目も回っちゃったけど、
回るたびに何かが振り落とされていくような不思議な感覚になりました。
何かに煮詰まったり不安を感じてる人は、騙されたと思ってやってみて!
と、声を大にして言いたいですね。
もう怖くて出来ないと諦めていたけれど、次は倒立にもチャレンジしたくなります。

視座を変える。
視野を広げる。

こういうのって、どうしても心の問題として捉えがちだけど、
もっともっと身体的な問題なのかもしれない。
半月ほど前に友人達との食事の席で身体性の話になって、
その話がおもしろかったと、日記(1/365)にも書いたんだけど、
その時にはまだ理解しきれていなかったことが、でんぐり返しをしたら降りてきたぞ。

毎日何かしらを書き、発信しているからと言って、すべてを書ける訳でもなく、
当たり障りのない事だけを毎日書き続けることに疑問も感じ始めていました。
毎日書くのは、誰にも見せない日記だけでいいのかな?という気もしています。

このHPの行く末だけでなく、実は私、本当にこれからの仕事の請け方を悩んでいたのですが、
例えば、一番やりたい事である『暮らしの相談窓口になること』の難しさを痛感したり、
それ以外にも、いろいろと、変えていかなきゃいけないことにぶち当たっていたりして、
きっと、年齢的にも世の中的にもそういうタイミングなのでしょうけれど、
なかなか悩みのスパイラルから抜け出せずにいたのです。
が、でんぐり返しの遠心力で、なんだかホントに吹っ切れた気がしているナウ。笑

さてと、仕事に戻りましょう! ガシガシ進めましょう!

まだ分からないけれど、『1/365』を再び『Blog』に吸収させるかもです。

ツルっとは生きられないらしい

異業ではあるけれど、一人親方の自営業仲間である若い友達が、
ちょっとした不動産トラブルに巻き込まれ、
いや、トラブルに巻き込まれ…というほど大げさな話ではないんだけど、
暮らしていたマンションがオーナーチェンジをした途端に、
解体する事になったから立ち退いてほしいという通達が届き、
こういう時はどうしたらいいのか…と相談を受けたので、
昨日、知人の不動産屋さんを紹介して、一緒に話を聞いてきました。
その問題は、順序だてて交渉していけば不利益を被ることなく解決する見通しがつき一安心。

予期せぬタイミングでの引越しが強要され、
忙しい中、家探しから始めなければいけないのは大変だけど、
これはきっと、来るべきタイミングで来た転機のきっかけなんだろうな、と彼女は言っていました。
私もそう思います。

そんな話の流れから、お互いの今の仕事の状況や、考えているこれからの展望について話すうち、
20年近く前に読んで以来、何度も何度も読み返してきた、
山田ズーニーさんの『独立感覚~independent sense』というコラムが、
今の彼女に気持ちにぴたりと嵌りそうな気がして、紹介してあげると同時に、
自分でも久しぶりに読み返してみました。

独立感覚とは何か?
ズーニーさんは『自分に関する信頼感』ではないかと言います。
でもそれは、自信満々に迷わず目標に向かって突き進む事とは真逆で、
いつも迷い、揺れ動いている感覚の事なんじゃないかと続きます。  

そして、最後はこう締めくくられて終わります。

 

成功に効率よくたどりつくマニュアルが、
こんなに親切に出回っているいま、
自分の感覚を信じるなんて、
並大抵ではありません。

信じてみたところで、
自分の感覚なんてとても小さい。
自分の感覚でやることだから、
プレッシャーもやたらきつく、
失敗の痛さもどでかい。

だから、
自分の感覚を疑い続けるのもあたり前で、
悩み続けるのもあたりまえで。
それは一見、くよくよと見える。

それでも自分の感覚を売り渡さず、
自分の感覚で最後まで、
遠く、時間のかかるゴールを
目指そうとする人だけが、
独立感覚に優れた人なのではないか、
私は、そう思うのです。

山田ズーニー おとなの小論文教室『独立感覚-Independent sense』 より引用 

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いつもいつも『これでいいのかな?』と迷ってばかりいたあの頃。いや、今もだな。笑
迷ってばかりで自信もないけれど、
自分が大切にしたいものは変わらないし手放せないまま、常に揺れ動いている私は、
35歳の時にこのコラムと出会っていなかったら、
おそらく今、ちょっと違う人生になっていたんじゃないかなと思います。
そのくらい、私に力をくれた文章でした。

25周年を迎える前日に、このコラムを読み返すきっかけが与えられたのも、
きっと意味があるのだろうな。

おかげさまで、本日、サブリエ(旧アトリエ朋)は25周年を迎えることができました。
本当はこの節目のタイミングで、少し体制を変えようかと考えていたのですが、
相変わらず、自分の感覚に自信を持てずに迷い続けたまま、
何も結果を出せずに今日を迎えてしまいました。笑

きっとこれからも、ずっと変わらず、悩んだり迷ったりして進んでいくのでしょうが、
それでも、この25年間の中でひとつだけ胸を張れることがあるとするならば、
『考えることをあきらめなかったこと。簡単に答えを出そうとしなかったこと』
だと思うのです。
傍から見ているとイライラさせることもあるかもしれませんが、笑
私はこれからも、この独立感覚を磨いていきたいと思っています。

25年という数字に私自身が驚いてはいますが、ただの通過点という意識の方が強いかな。
どんな事を考えながら、どんな仕事をして、どんな風に生きていくかは、
おそらく今後もこの場所を使ってダダ漏らせていきますので、
どうぞこれからもよろしくお付き合いくださいませ。

最後になりましたが、
今日まで出会ってくれたすべての方たちに、心より感謝申し上げます。
こうして続けてこれたのはあなたのおかげです。とみんなに言って歩きたい。
本当にそう思っています。

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