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もう4年なのかまだ4年なのか

今日5月29日は、相方さんの祥月命日。4年が経ちました。

まさか今年も緊急事態宣言下にこの日を迎えることになるとは思ってなくて、
予定していた神戸へのお墓参りも断念。
なんとなく、仕事の予定も人と会う予定も入れられず、
空けておいてはみたものの、この日をどう過ごしたらいいのか分からず、
なんだかいつも以上にダラダラ過ごしてしまった。
まぁいいか。

普段はもう大丈夫なんだけど、命日はやっぱりダメですね。
生前の彼を思い出して寂しくなるのではなく、あの日のこと、
突然おとずれた別れを理解できず、何が何だか分からないまま過ごした
あの怒涛の1日のことを思い出してしまうので、
どうしてもキューっと胸が痛くなります。

こういう思い出し方をしないで済むようになるまで、
あと何年くらいかかるのかな。
来年には、ちょっと記憶が薄れていたらいいな。
いつか、うっかり命日を忘れてた!くらいになれたらいいな。笑

色 素材 空間 組み合わせの妙

国立のSg邸が完成しました。

設計が始まる時に、デザイナーのご主人から出された家づくりのテーマは『原宿』でした。
「抽象的なのでイメージが伝わるか分からないのですが、原宿をテーマにしたいんです。
 青山とも違う、渋谷とも違う、あの『原宿』という街をイメージして家づくりをしたいです」と。
確かに抽象的なのですが、言わんとしていることが不思議とストレートに伝わってきたのです。

そして、最初に記入していただいたインタビューシートには、ご夫婦それぞれが、
『ライフスタイルの表現の場であるということを大切にしたい』
『子供たちが自分の『好き』を大切に過ごせる家にしたい』と書いてくれていて、
読んでいるだけで、この家族のために提案すべき家の形が最初からくっきりと輪郭をもち、
なんの迷いもなくファーストプランを提出できたんですよね。
湧き出る感じでした。

このお施主様の要望をどう解釈したのかを、私自身もうまく言語化は出来ないのですが、
完成したこの家に、施主のSさんが本当に満足してくださっているので、
言葉にならない共通言語を持ってこの家づくりに臨めたのかなと思います。

抽象を具体に翻訳する。
おそらく、設計という仕事の根幹はこの作業に尽きるのだと思うのですが、
その醍醐味を存分に味わえたプロジェクトだった気がします。
今は、家づくりのヒントとなる情報があちこちに散りばめられていて、
ちょっと検索すれば、すてきな施工例の写真もいくらでも拾えてしまいますが、
知らない人のためにつくられた家の写真をスクラップするよりも、
もっと、ふわ~っとしたままの自分のイメージをそのまま言葉で伝えてしまった方が、
より自分が求めている家に近づけるのかもしれませんよ、と、
これから家を建てる人には声を大にして伝えたいです。

多少の微調整はあったものの、ほぼファーストプランのままこの家は完成を迎えました。
敷地面積が15坪、第二種高度地区の北側斜線も掛かってくる限られたスペースの中に
ご要望の間取りを入れるため、かなりシビアな断面計画での提案でしたが、
家の中の移動がいちいち楽しい、本当にSさんご家族にお似合いの家になりました。
まさしく、自分たちの『好き』を大切にしたライフデザインの表現の場になったのではないかと思います。

Sさんの引越しが終わり、生活が落ち着いたころに、
あらためて竣工写真を撮らせていただく予定ですので、
その頃には整っているであろう(笑)Worksのページで改めてご紹介できればと思います。

明日、お引渡し。
娘の嫁入り前夜の気分です。

 

私にとって一番怖いもの

『コロナ禍』と呼ばれる世情となって一年余り経ち、学校の授業やら会議やらがオンラインで行われることも当たり前になっているのでしょうが、私は今だ未経験。
PCにカメラが付いていないことを言い訳に、zoomのお誘いもことごとくお断りしております。

今日、銀行で『TV窓口』なるものに案内され、画面越しの対応を初めて経験したのですが、なんだろう…、もう怖くて怖くて逃げだしたくなりました。笑
いかんとも説明しがたい心情なのですが、顔が見えるのに体温を感じられないシチュエーションというのが本当に苦手なのだと思います。

もうずいぶん前から、誰にも同意を得られないまま私の中でだけ確信となっているのですが、人との関係性がなんとなくカサカサしてきたり、おかしな詐欺行為が次々誕生するような物騒でゆがんだ世の中になった諸悪の根源は『インターフォンの登場』だと思っているのです。
玄関先にいる人を顔も見ずに追い返すことができる、画面に映る顔を見て居留守を使うことができるって、本当は相当に異常な行為だと思うんですよね。
もちろん私もやりますよ。
その恩恵には十分あずかっていながらこんなことを思うのもおかしな話なのですが、これが当たり前であることが本当に恐ろしいといつも思ってしまうのです。

今日、銀行で感じた恐怖心はおそらくこの事と繋がっていて、多分そう感じる私の方が少しおかしいのだろうな自覚はしつつも、私にとって、体温を感じられないコミュニケーションが一番苦手で怖いものなのだと痛感したのであります。
コロナが収束した後の世の中がどんな風に変わっているのか、今は想像できませんが、これを受け入れられないと、これからの時代は生きづらくなるのだろうという事は薄々分かっています。
それでも、この感覚は大事にしておいた方が良いとも感じているのです。

気兼ねなく人と会える日々が戻るようにと、今はとにかく、それを切に望みます。

 

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