2022.1.26
もう少し時間に余裕がある時に、じっくり時間をかけて書きたいテーマなのですが。
先日読んでいた『言葉が鍛えられる場所/平川克美著』の中に、
小池昌代さんの詩『永遠に来ないバス』を引用し、
(略)~ 小池昌代という詩人は見えないものを見るという経験をわたしにもたらしてくれていることに気づきます。
見えないもの、それは時間なのですが、詩人が詩人になるのは、見えないものが見えるときなのかもしれません。
でも、見えないものが見えるだけでは、ひとは詩人にはなりません。見えないものを他人にも見させることができること、つまりは、見えないものを見えるように表現する奇術を使うことで、詩人になるのでしょう。
と書かれた一節がありました。
そして昨日、久々に読み返していた
『建築はほほえむ 目地 継ぎ目 小さき場所/松山巌著』の中に、
建築家は、(略)、多くの建築の使用者が、多くの職人や技術者が見ない風景を見ようとする。
その見えない風景を見えるものにする、それが建築家に課された役割だ。
という一文を見つけ、なるほどと思い、
吉村順三さんの『建築は詩』をパラパラと読み返してみたりして。
そして、去年、完成した家を見たお施主様に、
「この家がこうなることを、金沢さんだけは最初から知ってたんですよね」
と言われ、そうなのかな…と不思議な気持ちになったことを思い出しました。
*
オチはないんです、この話。笑
ここ最近、図面を描くという作業の目的とか責任について考えることが多く、
そういう意味では、何か大事なメッセージを受け取ってるのかもしれないけれど、
特に答えが出たわけでもなく。。。
ただ、仕事とは関係なく、
『見えるもの 見えないもの』という言葉には大切な思い出もあり、
人は一体何を見ているんだろう?という問いも、いつも自分の中にあり、
立て続けにこの言葉に触れる機会があったという事は、
きっと、今の自分が、何かを必死に見ようとしてるからなのかな?と思ったり。
ぜーんぜんまとまらない。笑
備忘録のようなもの。
決して、『建築家は詩人』みたいな大仰なことを書きたかったのではありませぬ。